パンとコーヒーと蜂蜜

もそもそと打ち綴る
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

- -
終わり。

今夜は満月。


朝は、くもっていて見られないかと思ったけれど
肌に心地いい風が吹くなかで、高く、煌々とひかる満月を見られた。

 


W杯も観た。(実際にこれを打ちはじめたのは深夜1時過ぎ)
対ポーランド戦…試合には負けたけれど、グループ内で、勝ち点も得失点も同点だったセネガルに「フェアプレーポイント」(これ知らなかった。警告を受けた回数で決まるそうな)で勝って決勝トーナメント進出…

 ということで、パートナーともども胸をなでおろした。

 

我が家でも、前半残り10分になろうかというタイミングで
なんとイニシャルG(カサカサする黒い…あのアレ)がお見えになり
わたしたち(というかパートナー。)も死闘?をくりひろげたりして
なんだか、どうっと疲れた2時間だった。

 

 

そしてこの記事で、このブログの書き納めだ。
5月6日から始めて、まだ日も浅いのに
毎日のように書いていたからかちょっと感慨にふけってしまう。
こう眠いアタマで、冴えたことを書けそうにもないので、気負わずにつづろうと思う。

 

 


・春先に、庭に種をまいた。
でも、思ったようには育たず、本来花が咲く時期になっても、ひょろっとした草姿のまま。

このまま咲かずに終わりそうだ。

まいた量にしては芽吹きも少なくて、予想とちがっていた。
思ったよりはやく気温があがって蒸したのに対して

春のあいだ水やりが過剰だったかな。

 

それから昨年、別の植物の元気がなかったので
ネットで調べた情報を、なにも考えずにうのみにして肥料をあげたら
妙にまのびして育ってしまって反省。

 

「植物の種をまいたなら、水よりも栄養よりも、時間が要る。

時間がかかる前提でいこう」

 

…って考えていたのに、ままならないものだ。

植物もそうだけれど、それを見つめる自分の目も。

 

 

一方では、まいてもいない植物がどこかから飛んできて急に芽生えたり

枯れてダメになったと思っていた鉢植えが青々とした葉を茂らせたりもして

 

おもしろいな、と思う。

 

 

 

・物事にも似たような感じがある。気がする。

 

 

たとえばこのブログも、ひとつの種で

 

意識して撒いたところで(どこで、いつ)芽吹くかわからない、

芽吹いたところで 思ったように育つかわからない、

育ったところで 実るかもわからない、

実ったところで、

それが「イイ実り」か「ワルイ実り」かは、その時になってみないとわからないし、もぎ取るのはわたしではないかもしれない。

まいたことに意味がある、ということも、あるだろう。

予想したとおりに実ってほしいから、と水や肥料をあげても、かえって根を腐らせるかもしれない。

一方では、意識してないところで、いつのまにか撒いていたり・誰かが置いてったりした種が、ふっと芽吹くかもしれない。

 

 

キリのない、たくさんの可能性の中で

わるいことを考えて、種をまくことさえやめてしまうよりは

 

「もしかしたら、いい感じになるかもしれないね」「なったらいいねぇ!」くらい

のんびりした楽しみな感じで種をまけたらいいなとおもう。

 

もしくは、それが「種」だと気づかずに

後から振り返ったら「あのとき撒いてたのか!」と気づくくらいでもいい。

 

時には必死に「芽吹け!」と植えることもあるし

「となりのトトロ」で、トトロたちとメイやさつきが必死に踊ったみたいに、祈ることもあるし

水や肥料だって、よく見ていいタイミングで出来れば、結果にむすびついていく。

 

いろんなものがないまぜになって、みらいの景色をつくっていくんだなー。

 

 

そして、最終的には、なるようになる。

なるようにしかならない、とも言える。

サッカーと同じで、運もあるし。

テイクイットイージー、

人事を尽くしたらあとは天命を待つだけだ。

 

 

 

・このブログは、これといった目的もなく始めた。

もともと長く続けるつもりもなかったので、アドレスも「may2018」と銘打ってつくった。

 

ただ振り返ってみれば、ひとつ種をまいたのかもしれないな、と思う。

もしくはもう既に、種まきから収穫まで終わったのかもしれない。

それも、時間が経てばいずれわかる。

 

 

 

・眠い、そして目がしぱしぱする。

これ以上書き進まなくて、さっきからずっとここで止まっている。

締めの言葉がてんで思い浮かばない。

 

というわけで

そんなにおあともよろしくないのだけれど、

 

また書き始める機会があったら、このブログでもお知らせします。

 

 

ってもう3時!!!!!

時間かけすぎた。

 

 

 

・6月29日、よい一日を。

2018年も残り半年、よい一年を。

 

 

 

お付き合いいただいて、ありがとうございました。

 

 

 

- 23:59 -
おとぎばなし「風が吹いたら、桶屋が儲かる」

今日は、一日中風が強かった。

風が吹けば、桶屋が儲かる。

 

 

 

 

・草野球の少年の帽子が風に吹かれて飛んでった。
みんなで高いくさむら掻き分けて、ひざついて探した。

 

くさむらに、ぬかるみがあってうっかりハマった。

どろどろに汚れたユニフォームで帰ったらかあちゃんが怒った。
「だから母ちゃんがつけてやったゴム紐使えって言ったろ!」

 

怒った母ちゃんをなだめようと
父ちゃんがタオルをひょっとこ風に巻いて、桶を叩きながら踊った。
もっと怒ったかあちゃんが、桶を奪って手刀で叩き割った。
その日は晩飯抜きだった。

あくる日父ちゃんと新しい桶を買いに行った。
桶屋は銀歯を見せて笑った。
少年はなんだか、とてもみじめだった。


風が吹けば、桶屋が儲かる。

 

 


・強い向かい風だ。
どこかから飛んできた砂が目に入って痛い。

止まって目薬を差していたら
足元に桶が転がってきた。
「すみませーん、風で飛んじゃって」
かわいらしい若い女性が走ってきて謝る。

 

「いやあ、こんな風の強い日には飛びますよね、桶」
「ええ、困りますね」

 

「あの、随分と珍しい桶ですね、これ」
「そうなんです。駅前の桶屋で限定で扱ってて、衝動買いしちゃって」
楽しそうに話した後、はっとした顔をしてはにかんでみせる。
前歯の銀歯がきらりと光る。おや、と思った。
「あの、わたしったらこんなこと…すみません」
恥ずかしそうに手元の桶を覗き込んで「あっ」と声を上げる。

 

「タガが外れてる…」
「本当だ。これじゃ使えませんね」
「ええ…。でも仕方ないです…。
 じゃ、あの、すみません」
「ええ。」

 

用事を済ませた帰り、ふと思いついて駅前の桶屋に寄ってみる。
彼女が持っていた珍しい桶…これか。
ひとつ買ってみるか。

「兄さん、いい買い物したよ。これ一昨日入ったばっかりでよく売れてねえ」

と笑う桶屋の口元に銀歯が光る。
会計を済ませて出ようとしたところに、なんと
「あ、今朝の!」
と彼女が現れた。

 

「あ、どうも」
「買ったんですね、それ」
「はい、いいなと思って」
「わたしも、新しいのを買いに」
「そうでしたか」
「はい。じゃあ、どうも」

 

迷った末に声をかける。
「あの」
「はい?」
「よければこの後お茶でも」
瞬間彼女の顔がくもり、口がぎゅっとすぼまる。
「あー…。忙しいので、すみませんけど」

「そ、そうですか。すみませんでした」
「いえいえ、では」
「はい」
最後に見せた笑顔の口元に、ちらりと光る銀歯…


風が吹けば、桶屋が儲かる。

 

 


・春一番が吹いている。


今年は早咲きだった桜が散らないかどうか、なんとなく気持ちが落ち着かない。
帰りに「わたしの桜」に会いに行こう、と決める。
家の近くの公園に咲いている何本かの桜のうち、「わたしの桜」と決めた一本がある。

むかし尊敬していた人が
「自分の桜を決めて、毎年会いに行くといいよ。春を待つ気持ちが変わるから」
と教えてくれたことがあって、以来、毎年会いに行く、わたしの桜の木。

 

急いで帰ってみると、少しひんやりしている春の夜、月明かりに桜の花が光って見える。
花灯り…だったっけ。よかった、思ったほど散って居なくて。
胸をなでおろして、花を見上げて、ぼーっとする。

「花を見上げる」と言うだけで、なんとなく桜って感じがするな。
そういえば「花」って、春の季語だっけ。川柳だか、俳句だかなんだかの。

むかし授業で、習ったような。


前はちっとも、春が楽しくなかった。
お酒もきらいだし、飲んで騒いでる人たちもきらいだし、もやっとした天気もきらいだった。
冬の緊張がうまくほどけなくて、いつも憂鬱になってしまって。

 

わたしの桜を決めたころからか、少しずつ春の楽しみ方がわかるようになってきたのは。
春の楽しみがわかるようになってから、四季の移り変わりを味わえるようになった気もしている。


もう少しあったかくなったら、散歩がてらに銭湯に行こうかな。
桶に石鹸だのタオルだの詰めてさ。
あ、桶ないわ。買わなきゃ。


風が吹けば桶屋が儲かる?

 

 

 

 

・風が吹いた。
一郎が凧を持って走り、
次郎が糸を引く。
三郎がはやしたて、
四郎と五郎がそれを見ている。

 

強い一陣の風が、次郎の手から凧を奪って飛ばしてしまった。
怒る一郎、泣く次郎。
唖然とする三郎、
四郎と五郎がそれを見ている。

 

みんなでトボトボ帰る道。
怒る一郎、泣く次郎。
帰ってみんなでわあわあ、おっかあに言ったら
「明日新しい凧買っといで」って小遣いくれた。

 

次の日、新しい凧を買ったら、商店街の福引券をもらった。
福引をしたら、かっこいいTシャツが当たった。
「ぼくの!」「ぼくのだ!」
言い張る一郎、負けない次郎、加わる三郎、
四郎と五郎はそれを見ている。

 

引っ張りあって、やぶれたTシャツ。
怒る一郎、泣く次郎。
唖然とする三郎、
もはや興味をなくして福引のおばちゃんと話している四郎と五郎。

 

てんやわんやの大騒ぎ。
見かねた桶屋が差し出した、自慢の桶。
「あたりだコノヤロ、持ってけドロボー」

 

みんなでトボトボ帰る道。
帰ってわあわあ、おっかあに言ったら
おっかあ駆けてって桶屋に頭下げた。
一生懸命頭を下げても、お金受け取ってもらえなかった。
「ありゃ当たりだったんだ、買ったんじゃねぇ」
不器用に笑う男の横顔に、哀愁の銀歯がちらりと光る。

 

晩飯に
「Tシャツの代わりに桶…っていうのもねえ…」
と、おっとうはぼやいた。
後日みんなで買ってもらったそろいのTシャツ。
それからついでに、そろいの桶も。

 


風が吹いたら、儲かれ桶屋。

よかったよかった。
めでたしめでたし。

 

 


OK!Yeah! −ほぼ日刊イトイ新聞「風が吹けば、桶屋が儲かる。」

 

 

 

 

 

- 23:59 -
あるべきものを、あるべき場所へ。

千葉のわがやでは、本日、今年初セミの声を観測した。

わたしは「せみー!なつー!」とひとり、よろこんだ。

でも、体感はもちろん、猫の耳がかゆそうな様子や、昨日まで元気だったゼラニウムが灰色カビ病になりかかっていたところを見ても、湿度が高いことがよくわかる。食の安全にも気を使いつつ、さわやかに生きたい。

 

 

・この前ネットで活躍している若い子たちを見た。

自分の名前も顔も出し、文を書き、写真を撮り、人とつながり、

あらゆる自分の良さを使って表現しながら、仕事をしている。

すごいな、とおもった。

かっこいいなと。

わたしにはできないなと。

 

 

わたしは、自分の顔と名前を出しながら、自分の感覚を、本当の意味で正直につづっている人たちを、心から称賛している。

 

そのうえ、感情的にならずに・感情も思考で濾過して客観的に知恵を採りだし、(扇情的ではなく)平易に書いている人たちもいる。そのレベルに達している人たちをみると、尊敬する気持ちが止められない。

 

 

いずれも、自分に対してあるレベルで客観的にならないとできないことだと思う。

自分の見た目の美醜にこだわったり、経歴に自信がないとぼやいたり、ごまかしたり

つまりは何かの物差しではかっている内・我がある内は、本当に自分として表現していくことはできないのかもしれない。

 

 

 

・どこで読んだか、あるいは見たか、

 

徳川家康は歴史上で自分が果たす役割をわかっていたから、天下統一できたのだ、という話を思い出す。

 

 

大きな視点で見れば、自分がどういうものであるか、ということはおのずと明らかになる。

それが明らかになったとき、それに不満を言うのか、その中で果たすのか、下剋上するのか、どうなのか。それも個々の選択にある(どれも、間違いじゃない)。

必ずしも家康のように大きなことを成し遂げるのでなくとも

歴史上でそれぞれが果たす役割は、それぞれにある。

答えはすでにあって、あとは見つけるだけ・思い出すだけだ。

 

 

 

 

 

・かく言うわたしは最近まで、自分の見た目がきらいだった。

自分の内面と合っている気がしなかった。

 

どういう見た目かというよりも

自分の内面と外面とが一致していることのほうが重要だ と思っていたわたしにとって

それらが一致しないでいつもチグハグでいること(であるように感じること)が、苦痛だった。

 

でもわたしがいつも「チグハグだった」のは

自分をすなおに認めていなかったからだ。

自分の内面・外面どちらも、様々な面や長所や短所を、「これはいやだ!」と言い続けていたからだった。今となってはそう思う。

 

 

歴史上(それは地球や日本と言う大きなレベルではなく、家庭や地域でもいいのだ)果たすべき役割なんて考えもせずに、与えられたものすべてに、ずっと、文句を言い続けていたわたしだ。

 

長所は長所、短所は短所として、自分を他人のように、ただ世界を構成する要素として突き放して見るなら

できることをし、与えられたものを果たすだけでも、十分だし

そうできるすべては、すでに持っているということになる。

それが出来なかったわたしは、やはり我が強かったのだと思う。

我が強く、すなおに受け入れないで「これじゃいやだ」「違うんだ!」と文句を言い続け、与えられたものさえ、こなさないで来たからこそ、さまざまな嫌な出来事が起きていたのかもしれない。

 

 

 

・20代前半の頃、わたしのアタマやこころの中に響いていた言葉は「底の割れない人間になれ」だった。

今は、しきりに「遠景をみろ」という声がしている(念のため、幻聴ではなくて比喩だ)。

 

 

以前、武田鉄矢さんがオーラの泉という番組の中で(当時美輪さんが好きで観ていた)

 

坂本龍馬やその周りの志士たちが、あれほどに大きなことを成せたのは

彼らの育った場所には海があり、常日頃から海をみて、その果てに思いを馳せていたからではないか

 

という話をしていて、とても印象深く記憶に残っている。

わたしはあんまり…その辺の歴史は詳しくないのだけれど…。

 

わたし個人としては「日本のメガネ率が高いのは、遠景がなくて身近なこまごましたものばかりを見ているからだ説」を採用しているけれど、その景色はマインドにも影響を与えているのかもしれないよね。

 

 

自分がどんな景色を見ているか。

それもまた、与えられたものの中で…という話になのかもしれない。

もちろんそこに縮こまる必要はなく、伸びる部分に関してはどんどん伸ばして変わっていったらいいんだ、植物じゃなく、人間なのだし。

ただやっぱり、分っていうのはあるんだろうな、とも、感じるけれど。

 

 

遠景を…つまり自分がいる場所に立ち、そこから繋がる果てと、そのあいだにあるものを見ながら、正直に・すなおに、手元足元の物事をやっていけば

自然、自分の居る・要る場所へ、たどり着くもの…なのかもしれない。

それは「かえる(返る・帰る)」ことと、同意義な気がしている。

 

 

 

 

 

大切なのは、間違ってもいい、ということだ。(間違うことも、間違いじゃない)

間違ってもいいから、自分の感覚に正直にやって、少しずつ形にしていけばいい。

 

(夜に書くとこういうことをツラツラ書いちゃうんだから、ほんと。)

 

 

 

- 23:56 -
過去のおのれが何か言う。今のわたしがそれに応える。

むかし、ホームページとブログを作って、いろいろ書いたりしていた。

数年前まで、8年間くらい。

 

そのころに書けなかったことを、このブログを書くことで
自分のこころの奥にたまっていた過去の澱が流れた。
澱自体をぶちまけたわけではなく、「書けない」「書く価値や資格がないから黙っていなくちゃ」「見せるのが怖い」と思って書かないでいたことを、いまさらでも書いたことで、「書けない」も、「書く価値や資格がない」も「見せるのが怖い」も、なくなったという意味。


そのころのわたしでは「単に夢見ているだけの夢(まったく実現できない)」になってしまいそうで書けなかったことを、この年になってようやく素直に書けるようになった。長い…ほぼ15年越しのアレやソレだ。
こうして当時考えていたことと同じ内容を、今のわたしがまったく別の言葉で書くことでさらに、あの頃の自分自身との違いが際立って感じられた部分もある。


でもいざ書いてみれば
「書くこと以上に、体現していくことが大切じゃないか?」
という声が繰り返しひびいて、あらためて自分を振り返る機会も増えた。
おおやけに書く、ということだけでこんなに変化があると思っていなかった。

 

 


・いまふと、ほんとに突然思い出したんだけれど
「書くこと以上に体現したい」というのは昔、小5の時におもったことだ。


その頃のわたしは、担任の先生や同級生が言ってくれた「文章がうまい」「絵がうまい」という言葉に調子に乗って、頼まれてもいない作文や絵をかいては先生に見せていた。先生も、忙しかったろうに、いつも丁寧に見て褒めてくれたので、調子に乗ることこの上なしだった。


でもある日、道徳の教科書だかなんだかに載っていた…

同じ年の女の子が書いた、環境問題をわかりやすくポップに伝えるマンガを目にしたとき、わたしは思い切り打ちのめされて「自分の表現なんてクソだ」と思った。大人ならまだしも、同じ年の女の子がこれだけの表現をして訴えているんだったら、自分が何かを書く意味などいまさらない、と思った。


そしてその当時までに読んだたくさんの本を書いた人たちのことに思いをはせた。足りないアタマなりに考えて、
「あれだけたくさん書いている人がいてもまだ、変わっていない世界なら、自分は書いてだれかに訴える側ではなく、行動するほうの人になろう」
と思ったのだった…実現されていないけれど。

 

今の私なら、その私にこう言ってやりたい。
「人には得意不得意がある。短所を無理に伸ばすより、長所を生かすことを考えた方が人生たのしいぜ」と。それから
「行動する人と、表現する人は、別じゃないぞ、子供よ」と。

 

 

 

 

↑その頃のわたしがよく聴いていた一曲。

 

 

 

・これを今読んでいる人には、過去の自分に言ってやりたいことがあるのだろうか。


過去も今も含めて、

自分にかけてやりたい/聞きたい/聞きたかった言葉をこそ

自分が今、語るべき/語れる言葉なのかもしれない。
それを本当の意味で「言える」わたしになれているかが、自分がどう生きてきたかを知るひとつの尺度になる。
ま、そんなの計らなくたって生きていけるけど。

 

 

わたしが過去の自分にいちばん言いたいことは
「君は1億パーセント生きてていい。生まれてよかったな!ラッキーガール。
”自分が生まれたのは間違い”というその思いの方こそ、誰かの大きな間違いで植え付けられたものだ。
君の命や存在を否定する言葉すべて、人の弱さから生まれた間違いだよ。
誰が何を言おうと堂々と笑っていていい、
そして幸福でいることにだけ全力を尽くしなさい。
幸福でいることと、幸福にすること。
それ以上大きくなしがたい事業は、人生においてない。
辛いかもしれないけど、ぱっちりと目を覚まして、力を尽くしなはれ。
そして誰かが何か言ったときは、人のさまざまな弱さを知る機会なのじゃよ」
と、長いけど、こんな感じかな。


他にもたくさんあるけれど、あんまり言うとヒネクレていてあまのじゃくだった私のこと、逐一逆に振れてロクでもないことになるかもしれない。

 

 


・というわけで?、
5月6日から始めて、2カ月もたっていないけれど
このブログについては6月28日で更新をやめることにした。


なんで28日かって言うと、いろいろキリが悪いとやめづらいけれど
とりま、その日が満月なので。
理由として、ぼんやりしていていいよね。
とりま、その日が満月なので。


また書くとしても、誓ってJUGEMにはしないし
書き始めるのは何か新しい目的を見つけるか
書くのを一度やめることで、書く楽しみを見つけられたときだと思う。
案外すぐに見つけて始めたりしてね。

 

 


・昨年末、LINEをやめた。

マメさがカケラもない超面倒くさがり・かつ変にマジメなわたしは、ある日

 

こうストレス感じながらLINEするくらないなら、やめた方が(わたしにとって)いいなと考えた。ニガテなものは、仕方ない、と。

 


努力はした。メールが苦手だったので、LINEが楽しめれば、と思っていたんだけれど、やっぱりダメなものはダメだった。一生懸命に返信してしまうので、返信をしたあとにどっと疲れてしまうのだ。
もし困ったらまた始めることも考えていたけれど、今のところはない。
広げた風呂敷をたたむのは少し大変だったけれど。

 

 

人との縁はツールには依らないんだ、などとは言えない。
わたしにとっては都合がいい甘い言葉だけれど、本当じゃないと思う。
ハガキや電話の時代から、ツールがなくなれば人の縁はあるていど途絶えていたはずだ。
携帯でもSNSでも、たぶん一緒だろう。

 


でもニガテなものを、イヤがりながら無理につかって摩耗していくくらいなら、他の方法を探す。
他の方法を探りながら生きているわたしでも途絶えない関係を(能動にしろ受動にしろ)、大切にしていければいいと勝手ながら思う。
もちろん、便利なものは、何もおもわず使いこなせるにこしたことはない。
ただわたしがそうではなかった、というだけだ。

そのくらいの振れ幅は、現代にだってある、少なくともわたしの中には。

 

 

 

・いくら断捨離が流行っているとはいえ、やめるやめるばかりじゃ、逆に疲弊しかねない。
楽しめなかったのは、わたしの工夫が足りなかったからかもしれない。


堀江貴文さんが「AIに仕事を奪われるって嘆いている人たちは、なんでAIを使って仕事をしてやろうって考えないの?」って真っ当なことを言ってたんだけど、そりゃそうだ〜。

ツールはツール、人は人。そこを割り切ってない時点で・優位性を間違えている時点で発想の詰めが甘い、と言われてしまえばそれまでだ。


ただそうは言っても
使いこなせないツールを、分を超えて努力して使いこなせるようになるのがいいのか
(謙虚さや遠慮ではなく、ハタケが違う、ということだと思っている)
使えるツールでやっていく生き方を、大きな目でとらえながら生きていくのか
使えるツールでいいですから、と小市民マインドで生きていくのか

 

 

わたしはどうなのか…

 


いずれにしても、人生の選択は自由だ(大人になったら、特に)。
選択が、みらいをつくる。
そしてたくさんの人が選んだものを生きることで、世に「例」が増えていく。

後続の人たちの前に「例」がたくさんあれば
「こうはなるまい」でも「こうなりたい」でも「参考にならない」でも、選択の幅が増えていくことになる。

 

 

 

…そう、この「結局選んだ自分がすべてだけれど、せめて選択の幅を増やしてほしかった」というのは

 

「行かない」と散々言ったけれど説き伏せられて大学に行き、

中退してしまったわたしの思いだったなあ。

 

自分自身がいろんな可能性を見られる・また人に見せることが出来ないなら、長く生きてる甲斐もない。

…なんて、それはナマイキ言い過ぎたかなー…ポイズン〜…♪

 

 

せめて、叩かれても叩かれてももう希望を失わないわたしでいられたら、と今は思っているけれど。

 

 

 

↑これも小学生当時だいすきだった曲。人生で初めて買ったCDがこの曲だった。

 

 

 

- 23:13 -
サッカー観た。

ブログを書こうと思ったけれど
今日はだいぶ遅くなってしまって

W杯始まったと同時くらいから打っているんだけど
この試合を見ながら、他のことを考えられるわけがないよね。
何回トライしても
まったくもって無理でした。


わたしがW杯をこれほどまじめに観たのは、2002年のW杯以来だ。
あの頃は宮本さんのヒーローマスクが格好良かった(サッカーじゃないんかい。)。
監督が変わった時点で、今年も観ないだろうな…と思っていたんだけれど
パートナーがすごく楽しみにしていたので、巻き込まれて結局観ている。

 

 

今日観た対セネガル戦、とても面白い試合だった。
わたし、あんまり普段はサッカー観ないので
詳しく語れはしなくて、ぼんやりした感想になっちゃうけれど
すごくいい試合だった。パートナーと近所迷惑なくらい応援しまくった。

今回の日本代表は、いい意味で予想を裏切りまくりで、その点においても
メンタル面もずいぶん変わったんだなあ、と思ったけれど
フィジカルも、技巧も、ハングリー精神も、前とずいぶん印象が違ってびっくりした。


すごいなあ。
今日はこの感動を胸に、ぐっすり寝たいと思います。


余談だけど、あと、インタビューの仕方も少し変わった?
前は、インタビュアーが何故かいつも「〜でした」という言いきりで相手にマイクを向けていた気がするんだけれど(日本のプロ野球では最近も見た気がする…)「〜いかがですか?」とか「どう思われますか?」とか、疑問形や問いかけがほとんどになっている。
試合の内容や選手の質だけじゃなくて、いろんな環境が一緒に変わっていくものなのかもな〜…

 

 

 

- 02:07 -
パンとコーヒーと蜂蜜、もしくはご飯とお味噌汁、TKGについて。

このブログの名前を「パンとコーヒーと蜂蜜」とかしゃれた感じにしておきながら、わたしが食べるのは、がぜん白米のほうが多い。


 ごはんって、、、おいスィーーーー!!!!!


本日も三食ご飯だ。
I LOVE ごはーん。
もし明日から白米を永遠に食べられません、と言われたら、生きていける自信がない。

おいしいお米を生産している人たちに、魂の底から感謝している。

 


・夜にたくさん食べるので(本当は昼にたくさん食べるスタイルにしたいけれど、生活上ムリなので)、朝と昼は納豆やお味噌汁や、簡単な炒め物なんかと一緒に簡単にするか、TKG(たまごかけごはん)にする。

 

お味噌汁で一番好きなのは「トリ汁」。
豚汁のお肉をトリにしたバージョンで、我が家では豚汁よりもよく作られている。


長ネギ、にんじん、ごぼう、大根、しめじ、こんにゃく、トリもも肉をベースに、たまにレンコンや木綿豆腐を入れたり、大根をカブに変えてみたりする、ぜいたくなお味噌汁だ。
なので、お味噌汁というより、メインのおかずとしてつくる。
ポイントはトリのあぶらをしっかり除いて皮目をカリっとするまで焼くこと、臭みをふせぐために日本酒を入れ、かわりにお味噌を少なめにすることだ。


あと、タマネギとじゃがいものお味噌汁も好き。豆腐と長ネギもいいし、油揚げもいいし、さつまいもとごぼうとすり黒ゴマ(後述する飯島奈美さんのレシピだ)のも、わかめも…
お味噌汁っておいしい!!

 

 

 

・TKGはごま油、キムチ、ちょっとだけしょうゆを入れる食べ方が好き(ごま油の破壊力ね!)。いつかチャレンジしたいのは、明太子&バターTKGだ(健康にはわるそうだけど)。
関係ないけど、ごま油&塩のおむすびって美味しいらしいよ。
それもいつかチャレンジしたい。

 

 


・パンはというと
近くに、天然酵母&素材の産地も(小麦粉まで!)明記してくれているおいしいパン屋さんがあって、そこでパンを買ったときに、自分で淹れたコーヒー(もしくは紅茶)と一緒にいただく。

食パンはパリっと焼いて、はちみつをかけるのが好き。そこのパン屋さんは食パンはもちろん、菓子パンも総菜パンもぜんぶおいしいので、それを食べることもある(特にハーブ塩がかかった岩塩パンがおいしい)。ただ最近、後天的な小麦アレルギーの疑いが出ているわたしとしては、ざんねんながら毎日は食べられないのだ。しぜん、ご飯を食べる回数が増える。

 

そうして食べる朝ごパンは、本当に至福で
「今日もいちにちがんばるどぅーーー!!!」と元気がみなぎる。

食がもたらす幸福は、ときに食のもつエネルギーや栄養素以上にわたしを元気にしてくれる気がする。

 

 

 


・以前のわたしは、熱心なご飯党だった。

 

学校に行っていたころも、遅刻しようがなんだろうが朝の白いご飯とお味噌汁だけはゆずらなかった。
その頃のわたしにとっては、パン=お菓子であって、まして食パンを好きになることなどできなかった。菓子パンは(間食として)食べていても、食パンは食べた記憶がない。


そんなわたしの食パン概念をくつがえしたのは、この「飯島奈美さんの焼き方」だった。

 


1.トースターをあっためておく(熱の通りが均一になる)
2.パンをいれて、焼く
3.表面が焼けたら、パンにバターをたっぷりぬって、また焼く
4.そのバターが沸騰した水のようにフツフツと泡を出したら完成

 

 

このレシピを読んだ瞬間、食べないうちから、わたしは目からウロコが噴出した。
「これはおいしいに決まっている…!飯島さんは食の天才やで…!!!」

 

実際やってみたら、アンのジョーで美味。
そのままでもおいしいし、はちみつをかけてもおいしいし、もちろんジャムもおいしいし、忘れちゃいけないあんこもおいしい。
おいしいパン屋さんで買うパンはバターの風味が強いので、バターはのせないんだけれど…書いていたら久しぶりに食べたくなってしまった。あと、同じサイトに載ってる「ナポリタン」も前はよく作っていた…最近はパスタ自体食べていないけれど、おいしいんだよね〜。

 

 

うちでは同じく飯島さんのレシピである、簡単リンゴジャムをのっけて食べていたこともある(この「朝ごはんの献立」に載っている)。
そのジャムもリンゴを切ってバターで炒め、お砂糖と蜂蜜とシナモンで味付けしたシンプルなものなんだけれど、美味しい。市販のパイ生地にはさんで焼いてもおいしい。

飯島さんのレシピは「食べるのが好き!」というのがすごく伝わってくる。作るだけでもなく、人に食べさせるだけでもなく、自分が食べておいしいを大切にしているんだろうと思う。

 

 

とにかく、ただ焼けたパンにバターをぬるのとは違うので、ぜひ試してほしい。
なんなら「焼きパンバターのせ派」じゃない人たちにも一度試してほしい。「すパン具のせ派」とか「カリカリ焼き派」とか「サンドメーカー党」とか「すパンちぎりオリーブオイル族」とか、食パン界もいろいろありますからねえ。

 

わたしはこのレシピを知ってからずっと
誰かにおすすめしたくて、仕方がなかったのだ。
言える人には言ってきたけれど、こうしてブログに書いて、ようやく宿願を果たした。

 

 

 

・ついでなので美味しいジャムも一つ。

 

箱根の、ガラスの森美術館の庭に「アチェロ」というジャム屋さんがある。
テレビでも紹介されているらしいので今更かもしれないし、美術館の券がないと入れない(確かそうだった)のがネックだけれど

ここで売っていたラズベリージャムが本当においしかったので
行く機会があったらぜひ買って、食べてみてほしい。

 

 

 

 

こんなことを書いていたらおなかが空いてしまった。

 …えー、きのうはパートナーとケンカしたりもしましたがね…

 

おいしい(体によければ尚うれしい)ご飯をしっかりいただいて

ピッカリ元気にやってこ〜っと!

 

 

 

- 18:45 -
陽のさす階段にて。

昨日の夜中に文章を打とうとおもったら、頭が働かなくてなんにも打てなくて、ムダに液晶をみてドライアイになっただけだった。やはり夜に更新するのはよくない、とおもい、今日は昼にチャレンジする。

ほんとうは、朝に更新できたらいいと思うのよね。

あこがれは、ほぼにちのイトイさんだ。

いやイトイさんが文を書き留めているのは朝とは限らないけれど。

 

 

ブログを始めたときは、できるかぎり毎日(のように)更新できたらいいなあ、と思っていた。

でもいざ始めてみると、やれ胃が痛いだの、指をヤケドしただの、眠くて頭がはたらかないだのと理由をつけては穴をあけてしまった。

特に前に書いたように、「一度にひとつ」と決めてからは、前以上にのんびりするようになってしまったので、ブログの更新をしない日も増えたなと思う。

でも、ま、ざんねんながらぜんぶ言い訳じゃよ。

できなかったものはできなかった、まだまだ未熟なわたしだ。

 

 

 

・ブログを書き始めて痛感したんだけれど

 

ブログだってなんだって、毎日やれば一大事業だ。

日々のリズムがあるていど整っていないと毎日は書けないし、ましてグチは書かないでおこう・感情的に書くのをやめようと決めた日には、体調や思考力も自律して整えないと、そう出来ることじゃない。

 

イトイさんはすごい。本当にすごい。

イトイさんの何がすごいって、毎日更新しているのに、グチやお小言がほぼない、あったとしても明るくまろやかに書いてあることだ。感情的に書きなぐっただろう、という言葉もない。かならず濾過されている。

それは相当地道に整えられた部分がないとできないことのように思う。

 

 

それに、あれだけ楽しいことや面白いことをがんがん追求していなければ(していたって)、どうしてもネガティブに針が振れてしまうことがあるんじゃないだろうか?

イトイさんの立場&観察力があれば、言いたいことや説教なんて毎日書いても尽きないくらいありそうだけれど、それを体に溜めるほどこらえている風でもなく・イヤな感じににじみ出ているでもなく、まして感情的に書くことがないのは、楽しいことや面白いことを全力で追求してるのも理由のひとつじゃないか、なあんて勝手な個人的憶測だけれど。

少なくとも、「そう感じていない」のではなく「そう書かない」と決めているような気概がそこかしこに感じられるし、実際そのようなことを書いていらしたこともあった気がする。

 

 

…あるいは、わたしが同じことをするとしたら、そのくらいの努力が必要なだけかも。

とりあえず今のわたしにはできない、それをこのブログが表している。

まず日々のリズムからして、まだひよこのアホ毛くらい生まれたてで弱いのだ。

 

 

継続は力なり、とはよく言ったものだ。

時の流れに洗われなければ、真価が現れないものもある。

 

 

 

・わたしが小さいころから継続していることと言えば

息をしていることと何かしら文やメモや絵を書く(描く)ことくらいなんだけれど

 

19か20歳くらいからだったら、続けている習慣はいくつかある。

朝に常温の水か白湯をのむ、余裕があるときはその次にフルーツを食べる、寝起きと寝る前のストレッチ、この3つ。

水以外は途中3カ月くらいさぼったこともあったけれど、わたしの中で主観的かつ偏った協議をした結果、「10年以上続けていれば3カ月くらいはノーカウント」ってことになったのでヨシとしている。

 

最近はこれに床そうじが加わりつつある。

掃除機は重くてニガテなので、クイックルワイパア(パア!)でさーっと拭いたり、雑巾がけしたりしている。

単純に気持ちがいい(素足で歩くとなおさら)し、きれいにしていると家から自然といいにおいがする。それからもう一つの大きな理由は、パートナーが尋常じゃない猫アレルギーだということだ。

 

家はキレイになるし、パートナーの健康は保てるし、わたしもキレイな家の廊下や階段でごろごろしたり?リビングの床でうっかり寝てしまったり好き放題!できる。一石三鳥やで。

 

 

 

・そうやって床で寝ると、パートナーに「カラダ痛くなっちゃうでしょ!」と注意される。

でも、疲れたときとか酔ったとき、その辺にちょっと横になったまま寝ちゃう、あの背徳的気持ちよさをわかってくれる人は結構な数いると踏んでいる(ほかの人がしてるからいいってもんじゃないけどさ)。そうやって注意されるまでも含めて、なんか楽しくて気持ちがいいんだよねー。

パートナーが本気でコワイ感じや軽蔑した感じじゃなく、あきれつつちょっと許してくれてる感じに構ってくれる人で、よかった。(いや…わたしが自分に都合よくそう思っているだけかもしれない…自信がなくなってきた。)

 

以前の職場でそれをわかってくれる人が2人いて、「おぬしもわるよのう…ふっふっふ」みたいな楽しい気持ちになったものだ。

 

 

ちなみに今これを打っているのも、表題のとおり家の階段。

階段の窓を開けると木々が風でゆれる音や、鳥や犬の声、豆腐屋の(スピーカーの)笛の音、時間によっては近くの小学校で子供がはしゃぐ声がうっすらきこえる。風がよく通り、陽がさして気持ちがいい、家の中でもお気に入りの場所だ。

 

 

 

・ブログだけじゃなく

自分の言葉を文字にするときは、パソコンで打つにしてもペンで書くにしても

公開するにしても、自分だけが目にするにしても

書いたものがどういう雰囲気をまとっているかはできるかぎり客観的な気持ちで観察するように、心がけては、いる。

それによって、思っていたよりも悲しかったんだなとか、冷静になればぜんぜん平気だった、とわかることもある。

 

自分の気持ちを押し込めたりゆがめたり、無理に変えたりはしないけれど

感情的な部分はより分けて自分でせいせいさせたりしつつ

表現する部分に関しては多少コトバを選びはしている(つもり)。

 

このブログは、ハイすぎずロー過ぎない・普段よりもちょっとだけローくらいのギアで、自分の中の小さな考えや感覚をまとめられたらと思っていたのだけれど、できているのだろうか。自分では、時間が経ってから読まないとわからないものだ。

いつか反省したり、ダメ出ししているかもしれないな。

 

 

 

 

…さて、うんと伸びして、この後もあれやこれやしようかね。

 

 

 

 

 

・ひきつづき、よい一日を。

 

- 17:08 -
また会う日まで。

 

 

一時期、この曲をよく聴いていた。

わかってくれる人は結構いると思うんだけれど

「この曲を聴きたい感じのとき」によく聴いていたもので

 

流し聴きするタイプの音楽ではなく、わたしのごく個人的な考えや想像や、その時の人生の感覚とがっつり結びついた一曲(たくさんあるそういう曲のうちの一つ)と言っていい。

端的にいえば、思い入れのある一曲。

山根麻衣さんという歌手の枯れたハードな声が超かっこいい。

 

昔はCDで聴いていて、今はiTunesに入れっぱなしになっていたんだけれど

今日データ整理をしていて、消すことにした。

ほかの多くの”そういう曲”も一緒に。

 

 

 

・「断捨離」ということばはあんまり好きではないから…だって語感が堅苦しくってかわいくないんだもん。守破離的な?重厚さが合わない…なにか、他にいいコトバはないかな。

「手放す」とか「任務完了」とか「お役ごめん」とか「さよならする」とか…

「自由になる」とか「開放する」とか「ぬい閉じる」とか「括る」とか「卒業」「第何章完結」「それから」「to be continued...」とかなんとか、むにゃむにゃ。

語彙力のなさがうらめしい。

 

 

つまり、ぜんぶ同じイミで、「終わりと始まり」みたいなこと。

…じゃあ「Endding&Beginning」をDAIGOして「E&B」とかどうかな。「P&G」的な感じで。

でも「イーアンドビー」って語感よくないから、いっそラフに「イービー」でいいか、「ET」みたいな感じで。

 

 

というわけで、iTunesの曲をイービーしました。

  (何の話だっけ)

 

 

 

つまり断捨離しました。

 

 

 ※EB:《electron beam》、電子線の略

 

 

 

この曲も。

 

 

 

・久しぶりに聴きながら、「ずいぶん遠くへ来たな」とおもった。

聴いている場所はこの曲を繰り返し聴いていたときと同じなんだけれど、”きもち的な位置”はずいぶん大きく変わった。物理的な場所が変わっていないからこそ、きもちの違いが際立つのかもしれない。思っていたよりも、ずいぶん遠くへ来た感じがする。

そしてそう思えるということは、わたしがこの曲に持たせていた意味がもう終わった(完結した)ということだとおもう。

 

 

どんな小さな物語にも、かならず「完結」があって、終わった話をいつまでも繰り返し読むことは、ずいぶん感傷的な気がする。

 

感傷的になるのは二度くらいでいいかな、と個人的にはおもう。

一度目はそれが終わったすぐあと、二度目はずいぶん経ってから。

感傷している内は、手足は止まっているものだし、感傷を繰り返すと、フシギと感動はすり減る。

感傷さえしない!とにかく走れ!というほど、急いだりイキがったりハイになって楽しんだりするのも性に合わないので、二度くらいがちょうどいいかなとおもう。…いや、幅を持たせて「二から四度くらい」とぼんやりさせておこう。

 

 

 

終わったものについては、

 

それが大切で重要であればあるほど

後生大切にとっておくよりもいい感じの火にくべて

「その火を思い出に次の場所へと行く」くらいの身軽さが個人的には好きだ。

どうしても思い出したければ火を見ればいい。

そんなこともあったかな〜、どうかな、くらいの。

思い出さないけど忘れていない、くらいの。

そういう豊かなものの雑多な一部になっていくのが、個人的には一番いい。

 

 

20代前半のころ、わたしのココロの中に繰り返されていた言葉に

「底の割れない人間になれ」というものがあった。

 

思い出せることを大切にしたり、同じことを繰り返し思い出すような美しさよりも

思い出せないけれどとても大切だったことが人生の一部に、いつの間にかなじんで・含まれているほうが、「底の割れない」感覚に近いな、と今ふっと思った。

 

まあ、いやな思い出にかんしてはなかなかそうも行かないんだけれど。

 

 

 

・昔のわたしは、どちらかと言うとぜんぶを後生大切にとっておきたい、みんなが忘れてもわたしだけは覚えておこうと思っていた。

 

それがどこで転換したのかはわからないけれど

「全部を抱えてはいられないんだな」と、いつか深く実感したのは間違いない。

ま、ニワトリ並みに忘れやすいわたしが、たくさんの記憶を持っておこうなんて無理だったのもあるけれど。

 

 

終わったもので、特にそうできるモノゴトについては、自由に手放し、自分も自由になったほうが気持ちがいい。

そしてまたどこかのタイミングで会えたら、またその時に喜べばいい。

あまりこだわらずにいた方が、また会えたときの喜びが大きくなる気もしている。

 

そんな話をすると、時々人にはさみしい思いをさせてしまうようだ。

でも、わたしは「だいたい、また会えるから大丈夫サ〜」とざっくり、でも本気で思っている。

人も、物も、音楽も、思い出も、わたし自身さえも。

 

 

この曲も。

 

 

 

最近Youtubeの音楽を貼りすぎたな、と思ったので、あえてたくさん貼る方向に振り切ってみました。ら、ページのダウンロードが重くなりましたかね。

 

 

 

 

・旅の仲間は、旅の仲間。

旅が終わったら解散して、それぞれ自分の人生を続けるもの。

でも、また会えたらいいよね。

 

 

この曲も。

 

 

 

- 23:59 -
今日の所感

大阪で地震があったと、夕方近くなってから知った。いろんなことを祈った。

 

 

・「ラブリーなサムシングが足りない。」に書いた通り

さっそく爪もきれいにして(って切ってやすっただけだけど。)長めに歩いた後、

明るいうちにじぃぃぃ〜〜っくりとお風呂につかった。
とてもすっきりして、すぐに眠りにつきたいくらい体がだるくなった。

 


癒されるときって
ゆった〜りゆるんでいくような癒しや、清涼な癒しもあるんだけれど

逆に意識を集中してぐぐぐーっと癒すことが必要なときがある。
そういう時には体力を削りながら、カラダを治すことに力を使う感じだから
「ふんわり緩んでリラックス」したから眠くなるのとは違い
「長い時間動きつづけたような疲労感」を覚えて、眠くなる。

 


今回したのは集中するタイプの癒しでした。
となると温泉も、昼いろいろ見て夜にぽちゃっと浸かるより、昼に集中して入った方が効能があるのかもしれないな〜、なんてふと思った。
今までは、ついついあっちゃこっちゃ行きたくなってしまって、そういう温泉のつかり方をしたことがないんだけれど、今度してみよう。そうやって集中して癒したあとちゃんと寝ると、ほんとスッキリして気持ちいいんだよねー。昨日は寝るのが遅くなってしまったので、今日はまだ少しだるさが抜けないでいるけれど。

 

そういうスッキリ感を、自分のニュートラルにおけたらいいな。

 

 

 

・昔とくらべると、自分がニュートラルだと感じるときの基準が、ずいぶんと変わってきていると思う。
昔の自分が「今の自分はわりと自然な感じ。」と思っていたものが、いかに力みと緊張の上にあったか、今となってはよくわかる。いろんな経験をするごとに「こっちの方がすっきりしてる感じがする」「この状態の方がよりリラックスしている!」と気づく。そうして、判断基準そのものが刷新されていく。それはとても面白い。

 

 

自分が「これが自分だ」と思っているものがどんどん…、…どんどん「澄んでいく」って感じ。
レベルアップとか、ステップアップとか、変わっていくとかいうよりも
純粋になっていくというか。
その感じは心地がいい。

 

 

 

・それとは少し違うんだけれど

 

自分が考えたことや思ったことも、こうしてブログにどんどん書いていると逆に執着がなくなって、次のことを考えられるようになることに気がついた。書き捨てているつもりはないんだけれど、結果的にそんな感じになっている気がしなくもない。

 

ブログに書いてみたいことはまだ幾つかある。それを書いたら、その分のスペースが脳内に空くんだろうなあ。
物理的にはそんなスペースはない(と思う)のだけれど、そうやってどんどん空いていったら、今度は何が入ってくるのか、もしくは湧いてくるのか、ちょっと楽しみなのだ。ブログを書いてよかったな、と思う理由のひとつだ。

 

 

 

・疲れはもちろん、考えも感覚もアイディアも、大事にしたり貯めたりするときも必要なのかもしれないけれど
自然の中にあるもののように、川のように・音のように・風のように、流したり流れたりするくらいが、人間にもちょうどいい。と言ってもただ流されたり巻き込まれるのではなく、いい感じにたゆたったり、気持ちよく次に渡したりできるのが理想。

 

一時期、夏目雅子さんにはまっていて、写真集だの本だのを買いそろえていたことがあった。
その中に、夏目さんの言葉としてこんな感じのものがあった。

 


ただなんとなく流されるんじゃなくて
流されちゃえって 流されたいの

 


夏目さんの激しさを表した色っぽいセリフだなあと思っているんだけれど、この言葉の中には「激しさの中に巻き込まれたい」という気持ちがある気がする。

 

今のわたしはもっとこう、ゆるふわな感じで「たゆ〜ん」としてたい。「あ〜、流されてまんなあ」と心の中の鶴瓶さんがつぶやく位の感じ。そうしながら、自分の芯や核と言えるような部分は感じている。そして軌跡をふりかえったら「気付いたら何かが一貫している」「そのつもりなく自然と点を繋いでいる」。

そのくらいがいい。

 

 

スティーブ・ジョブスが、スタンフォード大学の卒業式の名スピーチで「Connect the Dots」と言っていたのを、わたしはずっと「点を繋げ」という命令形で考えて、納得していたんだけれど

最近のわたしが思ったことには、

無理やりに千切ったりねじったり、忘れたり捨てたりしなければ、点は勝手に繋がるものなのかもしれない、案外ね。

 

 


・なんかずいぶん抽象的なことを書いてしまった。
だるさが少し文に出ているかな…今日はそういう日だったんだねぇ。

 

 

 

 

今日はなんとなくこの曲な気分。

 

 

- 23:00 -
Human、Being。

心理学者の河合隼雄さんは、将棋の谷川浩司さんと対談した「無為の力」という本の中でこんなことを言っている。

 

 

今の人はみんな、「何かしなければ」と思い過ぎるんですね。
何かをしていることが当たり前で、何もしていない人はサボっていると思われるのが現代ですけれども、時々は何もしないでボーッとしているという時間を持ったほうがいい。…
…僕は、アメリカで向こうの人の生活を見ていて気がついたんですが、「人類」って英語で「ヒューマン・ビーイング」でしょ。ところがアメリカにはヒューマン・ビーイングがいないんですね。
では向こうの人は何かというと「ヒューマン・ドゥーイング」ばっかりなんです。(笑)。いつも「do」つまり「あなたは何をしてますか」「私はこれをしています」ということばかり気にしている。本当はそれ以前に、もっと大切なこととして、「be」、つまり「私はここにいます」「ここに存在しています」ということがあるはずでしょう。それなのに、人間として「ある」ということに満足してボーッとしている人はめったにいない。みんないつも「何かをしなくては」とあくせく動き回って、「俺はこれをやったぞ」というアピールばかりしているわけです。
(中略)
人間で「ある」だけですごいことなのに、「何かしなくては」「よい人にならなくては」と焦ってしまう。それはみんな間違えているんですよ。人間であるということがどんなに素晴らしいことか、それを忘れてしまっているんですね。

 

 

河合さんは関西の出身だけあって、ダジャレがいい感じのはずみを作っていて好きだ。

この部分、昔メモしたのを取ってあって、今回それを整理するために挙げてみた。

(他にもまだこの本からのメモがあるんだけれど…面白すぎて全部引用したくなっちゃう)

 

 

 

・ヒューマン・ビーイング。
 ただあること。

 

 

 

 

・時々、誰かと過ごしたり会ったりするのに、特別な理由や目的なくただ会って、一緒にいることを楽しんで、何気なく「またね」と別れるような会い方ができたらいいのにな、と思う。

「〇時にどこで待ち合わせして、一緒にこれをしましょう」と会うんじゃなくて。

 

カラオケとか、飲みとか、レジャーとか、そういう特別な理由をつけずに「会おうよ」「いいよ」と言って会えたらなあと。内容ありきじゃなくて、会うのが先にある、という。
昔はそれが出来ていた人とも、この年になってそれが出来なくなったなあ、と思う。

 

 


・それから、インスタやfacebookなどのSNSで

 

人に見せられるように作られたものや

人に受け容れられやすい部分が切り取られたものや

また人にウケやすいように成形されたものじゃなくって

 

もっと普通に・自然なトーンで、普段その人が考えているようなことこそ、目に見えたらいいのになととてもよく思う。その…表現した時に、人が読みやすいようにとか見えやすいように成形されている分にはいいんだけれど、表現そのものが人にウケやすいようにされていると、どうもピンとこない…

 

わたしが大切にしてる/いいなと思うものは、割とその辺にある。

人が普通に・自然なトーンで、普段考えたり感じたり、しているあたりに。

 

「それ」についてはリアルで話すことにしても、もちろんいいんだけれど

「デジタルとリアルの間にまだそれだけの乖離があるのか」とざんねんに思う気持ちも心のなかにずっとある。
デジタルをリアルに近づけていくんじゃなくて、またリアルをデジタルに寄せていくのでもなくて

 

リアルとデジタルを現実的にいい感じに織り合って作っていく。

それかいっそデジタルじゃなく、リアルでしっかり作っていく。

どっちかの方が好きかも。
人間が先に居て、ツールが後にある。

そういう使い方が面白い。

ツールに人間を合わせるんじゃなくて。

 


人に見せられるように作られたものや、評価されるものを見せられるつまらなさが、わたしはある。

 

「価値があるでしょ」「いいでしょ」という風に見せられると「うーん…(そりゃ、わかるけど…)」ともごもごしてしまう。たぶん、その人が見せたがっていない部分のよさを発見したいという、星野源的変態性があるんだろうな、自分にも。

 

 

もっとひとりひとりが、自分全体で居られるほうが心地いい気がする。
もちろん価値があるものや、いいものを見るのも好きなんだけれど、そればっかりだとむしろつまらない。
もっといろんな人の、いろんな面が見られたらいい。
もっといろんな人が、上手い下手に関わらず好きなようにいろんなことを生み出して表現できる風が吹けばいい。

 

 

 

・つまりそれは、ただあること。

ただあることを、恐れずに生きていること。


人間がただあることの中には、無から有までの様々なことが含まれている。
有用なものから、価値基準の外側にあるものまで、欠けから満ちまで…
様々なものがないまぜになっている。
切り貼りするあり方が、もはや窮屈だ。
わたし自身、全体で生きていくことが出来たらいいなと思っている。

 

そんなことを書いていたら、なんとなく、まど・みちおさんの詩を思い出した。

 

 

リンゴ    まど・みちお

 

 

リンゴを ひとつ

ここに おくと

リンゴの

この 大きさは

この リンゴだけで

いっぱいだ

リンゴが ひとつ

ここに ある

ほかには

なんにも ない

ああ ここで

あることと

ないことが

まぶしいように

ぴったりだ  

 

 

 

 

・生きているだけでいい感じ。

 

…という文脈の上に”だけ”生まれる、無限の素晴らしさがある。それは断言してもいいくらいの。

(それとは少し違うけれど、明石家さんまさんは「生きているだけで丸儲け」と言ったらしい。いい言葉だなあ!と思う。娘さんの名前もそこからきているとか、いないとか。)

 

 

 

・夜になるとこういうことをつらつら書いてしまうからいけない。

さっさと寝ましょう。

 

 

 

 

 

本文には別に関係ないけど、↑今朝テレビから流れてた。

映画は観てないけど、いい曲だなあ!

 

 

 

- 23:59 -
CALENDAR
S M T W T F S
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
30      
<< September 2018 >>
SELECTED ENTRIES
ARCHIVES
MOBILE
qrcode
PROFILE


SPONSORED LINKS